「邦楽にヴォイストレーニングがないのはなぜ?」

クラッシック声楽やポピュラー音楽にはヴォイストレーニングという概念があります。

ところが邦楽ではヴォイストレーニングという言葉は聞きません。それはなぜでしょう?

伝統的な邦楽のお稽古では、あれこれ理屈をいうことを嫌います。文句を言わずに師匠の真似をして曲をこなしていく間に自分で体得しなさいというのが昔からの教え方だからです。

確かに黙黙と師匠の真似をするのも一つの方法です。私もやりました。今もやっていますし(^^)言葉で言い尽くせない名人芸を受け継いでゆく良い方法ですからこの方法を全面的に否定する気はありません。

しかし悲しい事に、人によっては師匠の悪い癖ばかりをコピーしてしまう事も多いです。若い娘が年寄り師匠の歌い方そっくりになってしまうという笑えない例もあります。芸の本質より表面の癖の方が真似しやすいからでしょうか。

昔のような毎日稽古の時代には丁寧に芸を受け継ぐ事も出来たでしょう。しかし今では、促成栽培で本質を忘れたまま形だけを真似た発声、わからないまま学校で習った洋楽発声で歌ってしまう人が多すぎます。

私が提唱する「邦楽的ヴォイストレーニング」を言い換えるとしたら、「美しい日本語で歌うために自分の声を鍛えましょう」ですね。

伝統を受け継ぐ事と、自分の声を知り鍛えることを両立させると効率良いと思うので。 


「ヴォイストレーニングとは?」

ヴォイストレーニングとは、体の使い方を効率よく習得する訓練です。歌うための音程、細かい技法やニュアンスの前に、良い声を出すには息の使い方(吸い方、吐き方)、体の中での響かせ方など、体を楽器として調整する事が必要です。

体を楽器の一つと考えて、鍛えれば鍛えるほどよく鳴るというのが、ヴォイストレーニングの考え方です。効率が良いです。良い楽器が欲しければ自分の体を鍛えればよいのです(^^)

名人と呼ばれる人は考える前に出来るからヴォイストレーニングの必要がないのです。(とは言っても自然にやっているからこそ名人なのですが。)また器用な人も名人芸の再現から、名人技を自分のものにする過程でトレーニングが出来ます。でも、名人技を自分のものにする過程のどこかでつまずいてしまう人の方が圧倒的に多いです。

ヴォイストレーニングは、天才でなくても声を自然に出せるようにする方法を考えたものです。器用な人が辿る道筋を不器用な人でも転ばずに歩けるように。つまずきやすい所を通れるようにする杖だと思ってください。

また誰かの物まねでない、たった一つの個性を伸ばすためにも、その人に最も適したトレーニングをする必要があります。声という楽器に二つとして同じものはないのですから。ぜひ 自分の声を育ててあげてください。


「三曲(箏・三弦)の方が洋楽のヴォイストレーニングに行くと混乱するわけ」

箏・三弦の唄をジャンルわけすると基本的に「地唄」です。「箏唄」もありますが、どちらも邦楽的な発声の一種です。

箏・三弦を習うと、弾きながら唄を歌う機会はたくさんありますが、ほとんどのお稽古は、音が取れればよしとしているのが現状です。唄に関して専門的に学習する機会はほとんどありません。大抵「自然に歌えばいいのよ」で終わりです。確かにそれで出来ればいいのですが(^^)

箏・三弦が弾けるようになって、次は唄をもっと上手に歌いたいと思った方がヴォイストレーニングを受けたいと思うのは前向きで素敵な事ですよね。

ところが、一般のヴォイストレーニング(洋楽的ヴォイストレーニング)は確かに体の鳴らし方は教えてくれますが、いかんせん外国(ヨーロッパ)言語が美しくなる為の体の鳴らし方です。そのままでは「地唄・箏曲」に使うことは出来ません。日本語とは発声が違うので体を鳴らす場所が違うのです。

ヴェルカントで響きは美しいけれど、自然な日本語には聞こえない事がありますよね?仕方ないです、もともと日本語のための発声ではないから。

洋楽的発声を習って幅を広げ、邦楽との区別が出来れば問題ないのです。ただ、区別できずに混乱して苦労をしている、それが問題なのです。そこで私は「洋楽的」でなく「邦楽的」ヴォィストレーニングが必要だと思ったのです。

「唄いたいけれど、どうしたら良いかわからない」という方に自分の声を発見して、磨いて、楽しく唄ってもらえれば箏曲・地唄の世界が明るく楽しいものになると思うので。自分の声がダメだと嘆く方ほど、何かの拍子に声が出た瞬間は感動的で楽しいです。(^^)