11 「 自然界には存在しないプルトニウムの作り方」 
  1. ウランに(核)燃料と言う名前を付けて危なくなさそうな印象強化に努める。
  2. ウランを分裂させて化学反応を緩やかに行わせる為に水で冷やす。
  3. 核分裂による高熱で大量の水が蒸発。
  4. 蒸発する水蒸気でタービンを回して電気を作る。
  5. ウランの放射能を1億倍にしたプルトニウムの出来上がり。

[おまけ]

  1. プルトニウムには使用済み燃料という名前を付けて危なくなさそうな印象強化に努める。
  2. プルトニウムを燃やすとまたプルトニウムが出来るという夢の高速増殖炉計画で理論的には永久的に電気が作れるという。(実際には高速増殖炉「もんじゅ」はナトリウム漏れで動かせない。)
  3. 「核武装はしないが、核武装能力は保持する」政策的には原発は危なくてもやめられない。
10 「 見えないものが怖ろしい」 

チャリティコンサートは何度か行いましたが何か違和感があり..
南相馬にボランティアに行ってきました。

福島第一原発から20km県内にある小高町は震災直後に比べれば瓦礫はかなり撤去されて一見、何でもないように見えますが、封鎖が解除になった今でも人が居ない。その映像はTVで見飽きるほど繰り返されていましたが、実際にその場に立ってみると何とも言えない気持ちになります。

良い天気です。秋を感じさせる気持ち良い風が草をなびかせます。なぜこんなに気持ちの良い場所に人が居てはいけないのか? 理不尽です。家も庭も布団もおもちゃもあるのに。

人が居ない街は異様です。物はあるのに気配がない。
少しでもその思いを和らげようと流されている音楽も残念ながら私には不自然に感じました。

地震だけなら、津波だけなら...もちろん大変ですが、片づければまた始める事が出来ます。でも放射能は違います。どうやって片づければ片付くのか?誰もその答えを持っていません。せめて除染を。そう思って取り除いた土を、水をどうしろというのでしょう。除去した土・水はどこに流れても構わないと誰に言えるのでしょう。完全に除去できない厄介ものと、どうやって付き合って行けというのでしょう。セシウムは人が居なくても平気です。ストロンチウムは良心の呵責を知りません。プルトニウムは2万年頑張ってやっと半分になるだけです。

核分裂物質にわざわざ「燃料」と言う名前を付けて、有用な物質だという印象を持たせ、電気を作る為と称してプルトニウムを作る。そうやって出来た使用済み燃料とはウランの放射能を1億倍にしたプルトニウムの別名。自然界にはプルトニウムなんて鉱物はないのに、わざわざ処理できない物を作って。

福島の人達を気持ち良く暮らしていた場所から追い出して、家に帰れなくしたもの=放射能。誰もが皆知っているのに、なぜまだ原子力発電所を動かしてプルトニウムを作り続けているのか。

小高町で帰る人の居ない家の雑草を刈り、隣の原町では東京に避難したままの家族と離れ離れに暮らす老人の家を片付け、福島市内での除染活動では現在も子供が学校に通っている通学路の脇の土を掘り、コンクリートを擦ってもなかなか下がらないガイガーカウンターを手に途方に暮れながら、ウラン235が一度に反応したら広島原爆で、プラトニウムだと長崎原爆なんだよな〜。人とは付き合いたいけど、核物質とは付き合いたくないな。って。

沖縄の基地問題も各地の原発問題も自分の所じゃないから関係ない・興味ないって言う人たちはクラスメートがいじめられているのに見て見ぬふりをするクラスメートと同じじゃないのかな。

目に見えない放射能が恐ろしいのと同じで、興味がない=無知は「見えないから怖ろしい」

それが怪物の正体だ。

 「地震 vs 久本玄智」 

今までに体験した事のない大きな地震が来た。

幸い私の周囲に被害はないが、被災地の惨状を知り、死亡・行方不明・被災者・病人、悲惨な状況の中助け合う人々の姿を見ると胸が熱くなる。何か自分に出来ることはないか? チャリティコンサート? 今はまだそんな時期じゃない?かといって今出来る事と言えば節電位?

そんな中、前から決まっているCD録音がある。久本玄智作曲「早春」「花の露草」。久本玄智の曲は明るい曲が多い。演奏者も自然に笑顔になるような曲。特に何もしなくても曲をそのまま楽しく演奏すれば皆が元気になるような曲だ。

しかし、今回は困ってしまった。心がざわついている。「皆大変なのにこんな事をしていていいんだろうか?」 「いや、私は演奏家なのだから自分の仕事に集中しなければ。」 「でも..」

霞ヶ浦の美しい情景を歌っているはずが、いつのまにか津波の映像が忍び込む。能天気なほど明るい久本曲に自分が同化出来ない。箏や三弦ならこうはならない。「歌」だからだ。もともと私は曲の雰囲気やイメージが出来るまでは上手く歌えない。どこかにひっかかるとそこで止まってしまう。でも割り切れない塊を一度ほぐれれば後は感覚に任せておけば自然に流れていく。ところが、今回はイメージに感情が乗ろうとしない。心底明るく歌えない。気持ちのどこかが被災者とシンクロしてしまい、共に途方に暮れるのだ。

とはいえ、ちょっと前にはNZでも地震は起きていたわけだし、アラブじゃデモに発砲、世界各地の戦争は終わってない。そっちは置いといて、日本で地震だ。原発が危ない。親戚が知人が友達が自分も危ないかもしれないって騒ぎ出すのは好きじゃない。でも私の心のざわめきは確実に海外で何か起こったときとは違う。NZ地震の時もやるせなかった。でもあの時は歌えた..

非常事態になると歌舞音曲が禁止される。その気持ちもわからないではない。私自身、自分の家が計画停電に入らない事に後ろめたさを感じるように、どこかで音楽を楽しんだら悪いと思ってしまうのだから。でもこんな時だからこそ歌舞音曲を禁止も自粛もしてはならないのだ。

TVや報道が情報を伝えるのは良いが大本営発表になるのは危険なように、思いやりを忘れない事と我慢を強いる事を一緒にしてはいけない。酷い目に遭った人たちを思う心を持ったまま買溜めに走るのではなく、音楽をこそ続けるべき。その瞬間に騒ぐのも、しばらくしたら忘れるのも簡単だ。弱い人間は操作され、自分の意志を強く持たねば流される。

この地震も世界中の戦争と一緒だし..と、今だけちょっと気にして元の生活に戻るのではなく、心の痛みを忘れるのではなく持ったままでいい。今は出来るだけいつもどおりに過ごし、出来る事がないか意識して過ごそう。少しでも酷い目にあった人の気持ちに寄り添いたいと思うなら災害も原発も戦争もほっとかずに、自己満足の為の今だけ行動でなく時間がかかっても人災をなくしていこう。みんなが心から明るく楽しく歌えるように。


★久本玄智は5歳で失明。盲学校に入り、音楽で身をたてるために初代萩岡松韻に師事。両親共に音楽好きだった為、当時としては珍しくピアノや声楽の教えも受けていた。洋楽調のリズミカルな明るい曲が多い。
8 「I just do a job」 

「Ijust do a job」(僕は仕事をするだけだ)

イラクを空爆した米軍パイロットにどんな気持ちか尋ねた時の答え。自分の落とした爆弾の為に地上でどんなむごい事が起きているのか想像できないのだ。

軍隊では想像力など要らない。だからこんな答えが返ってくる。「仕事だから」「命令されたから」何でもする。そういう風に教育される。自分の考えを持っていたら生きていけない。軍隊とはそういう場所だ。

今、アメリカでは大統領選挙が盛り上がっている。しかし2大政党間に政策の違いは大してないから、もっぱら候補の人間性が強調されることになる。確かに大統領が軍人のように簡単に核ミサイルのスイッチを押したらどうなるか。そんな想像は皆出来る。(お隣の国は簡単にスイッチを押しそうに見えるので怖いんでしょ?)

映画のような想像は簡単だ。でも日常生活で私達は想像力を働かせて行動しているだろうか?自分が踏み出した一歩で変わるもの。幼子のように想像力を働かせすぎると、蟻や草木を踏みつけてしまう恐怖に足を踏み出せなくなる。しかし大人になるという事は軍人になることとは違う。幼子に蟻を殺せと教える親はいないだろう。

軍隊では人間的感覚の麻痺が行われる。戦争で絶対なのは勝利と言う名の目的遂行だ。目的遂行に必要なのは冷徹な正確さで優しさは必要ない。
憲法で戦争を放棄した筈の日本政府がインド洋での給油支援は必要だという。米艦隊の燃料は何の為に使われるか?航空母艦から離陸した爆撃機はイラクを空爆した米軍パイロットと同じ輩を何百人も乗せている。燃料がなければ戦争は出来ない。

在日米軍基地は出撃拠点にもなっている。ここまでは事実。ここから先に自分がどう関係するかが想像力だろう。自分が核爆弾のスイッチを押さなければ人を殺す事にならないと言うのでは、その想像力はあまりに貧しい。

日本人は自分が選ぶ候補者で政治が変わるわけはないと思い、アメリカ人は新しい大統領なら何かしてくれるかもしれないと思う。どちらも事実認識が甘く、想像は漠然としすぎている。間を埋めるのに必要なのは自分・世界がどうなりたいかと言う意識だ。

「著作権」という音楽家を守る為の権利を詐欺に使った小室哲哉も想像力を失くした一人だろう。軍人でなく音楽家とはいえ勝ち負けはある。純粋に音楽だけでは生きていけない。そんな仲間は私の周りに一杯いる。生きていく為に、いや勝ち残る為に想像力を失くしてしまったら...彼のようになってしまう。

「Ijust do a job」仕事をきちんとこなす。悪いわけではない。
しかし「何の為に?」がないのは、おかしい。
私は、ただ仕事をこなすだけの音楽家にはなりたくない。
7 「レッスンの罠」 

明日、友人がCD発売記念ライブを開く。

東京芸術大学邦楽科箏曲専攻卒業・NHK邦楽技能者育成会修了という立派な音楽暦を持ちながら、肩書きに甘んずること無く自分の道を模索し続けている。

もう何年も前、私が邦楽的ヴォィストレーニングを開講した直後にレッスンを受けたいと申し出てくれた。その頃既に一人前の演奏家であった友人にレッスンをするのも妙な気分だったが、私の歌が好きだと言ってくれていた彼女の何かを求めているひたむきさに数回レッスンした。

なぜ数回か。それは私がこう言ったから。「もう来なくて良いよ。今、貴女に必要なのはレッスンを受ける事じゃない、自分で何かをすることだから。」言葉自体は違っていたかもしれないがこんな意味の話をした。

その頃彼女の発声自体には特に困るような問題はなく、音楽的にも充分な実力を持っていた。でも彼女の中には“何かが足りない”感があったのだろう。もし彼女がうちに通っていたら、私はレッスンとはいえ質の高い音楽を共有できただろう。“足りない何か”を一緒に捜しながら楽しく過ごせたと思う。レッスンでやる事はいくらでもある。客観的に考えれば私は優秀な弟子を手に入れただろう。けれどそれでは本人の為にならない。彼女の問題は“教えてもらいたい”病だったのだから。

レッスンを受けて得るものは沢山ある。レッスンは一生必要なものでもあるし、高いレベルで教えてくれる人が居るのは得がたい幸運。でも時と場合によっては、レッスンを受け続ける事で見えなくなるものがある。

レッスンには多くの人が陥りやすい罠がある。基本が受身の態勢だから。
教師は良い所を伸ばし、悪い所は減らすようにアドヴァイスをするのが仕事。往々にして生徒は間違った場所をチェックされる事を待ち望み、チェックされる為にレッスンに来る。ある程度のレベルまではそれで良い、先生の指導を鵜呑みにする事でどんどん上達する。(逆にその段階で理屈を言う人は上達しにくい)

問題になるのは、先生に次に言われるであろう事が自分でわかる=かなりの高レベルまで到達しているのに、指示がなければ勝手に動いてはいけないと思う事。受身が癖になる。謙虚さ故にいつまでも鵜呑みを続けてしまう素直な人が罠に嵌りやすい。先生が罠に掛けるわけではない。曲をこなしさえすれば、レッスンを受けさえすれば満足。与えられるものをひたすら吸収し続けそのうち何か良い事が起こるのを待つ。そんなケースは山ほどある。でも待っていたって棚から牡丹餅は落ちてこない。

演奏家・音楽家を目指すものにとって、レッスンを受ける事が悪いことなのではなく、レッスンを受けないと自分からは何も出来ない状態を作ってしまう事が危険なのだ。“レッスンを受けている自分”に満足して終わるとしたら演奏家にはなれない。

私は彼女に来るなといった。折角教えて欲しいと言って来たのに可哀想な事をしてしまったかもしれない。でも私に教えられる技術の一つや二つ、彼女なら自分で見つけることが出来る。そしてあの頃の彼女にとって大事なのは人に教えられて見つける事ではなく自分自身で自分の音楽を見つける事なのだと私は思った。

あれから彼女は色んな仕事をこなし、人脈を広げ、ライブを積み重ねた。
今回、自分で撮影したひまわりのジャケットのCDと招待券を送ってくれた。
自分にしか出来ない歌を作り、生き生きと歌っている。あれで良かったんだと思わせてくれる歌声だ。本当によかった。今ならレッスンに来ても大丈夫。彼女の道はもうはっきり見えているから。もう必要はないと思うけれど。もし迷ったらいつでも来てくれれば良い。自分では見えない壁にぶつかるかもしれない。レッスンはそういう時、手を貸す為にあるのだと思う。明日は大きな拍手を送りに行こう。

2年ほど前、仕事でたまたま一緒になった時“由香先生”と連呼するので、頼むからやめてと、他の呼び名を探して取り合えず“由香姉”にしたけれど...実生活では妹が身についている私には“姉”と言う立場もやっぱりなんだか背中がムズムズ。明日もきっと“由香姉”..何かもっと自然に呼んで貰える呼び名はないかしら。
6 「お隣の犬」 

夜10時、なんだか表が騒がしい。

娘が帰ってきた?また友達と別れ難くて玄関先でしゃべっているのか?どうせなら家の中で話せば...外を見る。

お隣の奥さんが泣きじゃくりながら犬の名前を呼んでいる。一つ隣の奥さんが自分の犬を抱きながら「お母さんがそんなんじゃ他の子が動揺するでしょ!放し飼いにしてるからだよ!大丈夫、犬には帰巣本能があるんだから帰ってくるってば。」叱りながら慰めている。家の中では残りの2匹が吼えている。旦那は犬を探して出かけて行った。

お隣さんは中年の御夫婦で、3匹のミニチュワダックスフンドを飼っている。引っ越してきた日から、この路地を駆け回って探検。私が玄関を開けたら3匹揃ってご挨拶に駆け込んでくるほど人懐っこい。ちょっと遠出する時は自転車の籠から頭を並べる。韓国の方らしくお祝いの日にはカラフルなお餅のお菓子を分けてくれた。いつも子供のように可愛がっているので、泣くほど心配する気持ちが伝わってくる。お隣の奥さんは3匹のお母さんなのだ。

感情表現がとても豊かで自分の感情に素直な彼女。きっとお国柄もあるだろうけれど、気持ちを表に出せるのは良い事と思う。私はあんな風には泣けないなぁ..少し羨ましい。

娘がしばらく帰ってこなかった時、私は怒った。
でも...本当はあんな風に泣きたかったのだ。ただただ心配で、本当はあんな風に手放しで泣きたかったのに全く泣けなかった。一つ隣の奥さんが慰める言葉そのままに、そのうち帰ってくるのはわかっていた。でももっと厳しくしつけて鎖で縛っておいた方が良かったのだろうか、何が間違っていたのだろうと自分を責めた。

でも..娘は犬ではないので、家(親)から離れていくのは一人立ちする為の通過儀礼なのだろう。しかも犬と違って言葉を使って伝える事が出来るはずだから今後は伝えてくれると信じている。その時私は哀しくても嬉しくても怒るのはやめて、そのままの気持ちを伝えよう。

お隣のチビちゃん、お母さんが心配してるから早く帰ってきてね。
5 「万願寺唐辛子」 

唐辛子と言えば辛さを連想するが、京野菜の万願寺唐辛子は甘いと聞いて一度食べてみたいと思っていた矢先、東都生協の注文用紙に載っていたので早速頼む。

うちの家族はなかなか夕食に顔を合わせられないので、昼間からこのメニューも渋すぎ?と思いつつ生協の野菜が届いてすぐに作ってみた。

秋刀魚の開きに大根おろし、万願寺唐辛子は網焼きにして鰹節をかける。後は冷奴に戴き物の明太子。グリーンサポート(余剰野菜が届くシステムで何が届くかわからない)の枝豆に炊き立てのご飯に味噌汁。

なんて事ないメニューだけれど、こういう季節感のある食事が一番の贅沢だと思う。この暑いのにファミレスのハンバーグステーキは、ちょっと暑苦しい。

万願寺唐辛子は全く辛くない。むしろピーマンより甘いのに爽やかに唐辛子の香りがして、辛いのが苦手な私も夏を乗り切れそう。

ダイエット中の友人は、毎晩刺身こんにゃくと豆腐と納豆が夕食らしい。何とも淋しい。それより一緒に食べにうちにおいでよ。と呼びたくなった。これなら太らないし元気が出るよ?

次回の注文用紙に万願寺唐辛子が載っていたらまた頼もう。焼き茄子もいいなぁ。
4 「今日、地下鉄で」 

春休みなので子どもが多い車内。

目の前の座席に小学校3年位の女の子が3人、メモ帳にお姫様の絵を描いてふざけあっている。それだけならほほえましい風景なのだが、だんだん車内が混雑して私の隣に初老の男性が立つ。にもかかわらず、リュックサックで座席を占領したまま立ったり座ったり。あまつさえ座席に靴のままの足をのせてみたり。ん〜。自分の子なら即座にやめさせるが..一瞬躊躇する自分の心...“口うるさいおばさん?”だが直後に勝手に口と体が動いていた。

「あなた達、ちゃんと座らないなら立ちなさい。きちんと座ればおじさんも座れるでしょ?」言いながらリュックサックを女の子の膝に持たせる。二人は照れくさそうに笑いながら座りなおし、あと一人。これで終わるはずだった...が、残った一人はふてくされてリュックを持とうとしない。しばらく反抗的態度。そのままふくれて寝たフリかと思えばメソメソ泣いているような..。

困ったなぁ..叱られた事がないのだろうか?自分が悪かったと反省して泣いているのか、叱られたのが悔しくて泣いているのかがわからない。時間があれば優しく抱きしめて叱ったのではなく教えたのだと説明も出来るのだが。そのまま下車駅になってしまった。反省して泣いていたのだとしたら、いやそうでなくても何も考えずにヘラヘラ笑う二人よりも余程見どころがある子だと思うのに。願わくば、家に帰って親に「知らないオバサンに○○言われた」と話して欲しい。「悔しかった」でも「おせっかいなおばさん」でも何でもいいから親にぶつけてくれれば。まともな親なら子どもにその時のふざけていた様子とその是非を問うだろう。公共マナーはそうやって身に付いていくのだと思う。親がずっと一緒に居られはしないのだから。

車内の大人たちも、もう少し子どもに注意してあげてもいいんじゃないかな?

私の隣のおじさんも。たとえ席を譲られるほど歳を取っていなくて座りたいわけじゃなくても「君たち席を詰めておじさんを座らせてくれないか?」と言うだけで、あの子達は“混んだ車内では詰めて座る”という当たり前のことを学べるのに。その上「ありがとう」の一言で良い事をした気分になれる。年寄りと子どもの協調関係だ。体で“良い事”のやり方がわかる。私のような中途半端な年齢(母親位?)に“悪い事”をしたと言われて泣くよりよっぽど良い思い出だ。

子どもは知らない。だから気がつかないのだから、“その時に”教えてあげないとわからない。授業でいくら「お年寄りは大切に」って教えても、そこに「お年寄り」はいないし人はどこから「お年寄り」?きっとペーパー試験には良い点取れるでしょうけど、“実際とは別”と自分に都合よく割り切るのがイマドキの子だ。

私も自覚して、古きよき時代のおばさんを目指すかなぁ..。

男の子は派手に騒ぐので注意しやすいけれど、静かに好き勝手する女の子は注意もされないまま10年もすれば母親になれる年齢に。そんな母親はどんな子どもを育てるか...100年後どんな社会になるか想像するだに恐ろしい。さっきの子はどんなお母さんになるのかな?今頃、家に帰ってお母さんに話してくれてると良いなぁ。泣かしちゃってごめんね、あなたが嫌いなわけじゃないんだよ。

でも。やっぱり私って怖そうに見えるのかな。
3 「わたしのいもうと」 

北海道に住む後輩からこんなメールを貰った。

「15日、北海道新聞の社会面に突然「わたしのいもうと」が大きくとりあげられました。本の紹介というより記事ですね。写真もしっかりと。びっくりです。」

彼女と個人的に演奏した事はないが、箏・三弦のみならず20弦も25弦も弾きこなす頑張り屋さん。

北海道と東京では会う機会もなく年賀状のやり取りでお互いの無事を確認する程度だったが、去年の年賀状に「相談したい事があります」。何だろう?と思いながら心当たりもなく、不精な私はそのまま1年経ってしまった。さすがに気になって今年の年賀状に「相談って?何でも言ってね!」。まったく...童謡の「やぎさん郵便」並に、のんびりした話。

1年越しの相談は「わたしのいもうと」を演奏してみたいと言う話だった。断る理由などどこにもない。どんどん演奏して欲しいと伝えたら、とても喜んでくれた。市販されていない委嘱作に対する敷居は高かっただろうに、CDを聴いてからずっと演奏したいと思っていてくれた事、下の息子さんが自閉症で練習もままならない事、初めて知った。そんな中この曲に向かってくれてありがとう。レスポンスの遅い私でごめんなさい。

今、25弦で少しづつ練習してくれている。「歌涙出そうで、歌えません。」 確かにそうなのだ。そういう曲なのだ。重たく、深く、哀しく、美しい。「泣きながら歌っていいんだよ。歌って本来そういうもの。私も散々泣きました。」 そんなメールのやりとりに、委嘱した時、作曲者の神坂さんと“こんな話をしなくてもいいような社会になるといいのに”と話した事を思い出す。彼女も2児の母。

そんな折、新聞に「わたしのいもうと」が取り上げられたので冒頭のメールをくれた。.作品がメディアに大きく取り上げられるのは良い事だが、反対に「いぢめ」はちっとも減っていないという事実の反映なのは哀しくもあり、なんとも複雑な心境だ。

母として人として、哀しい思いが少しでもなくなるように社会に働きかけていかなくてはいけない。「やぎさん郵便」も何度も手紙を書いては食べていても、最後には“今度の手紙は食べないように”と結んだように(本当の歌詞なのか、誰かが終わらせたくて考えたのか知りませんが)私達はやぎじゃないんですから、いつかはもっと優しい社会に。
2 「面の皮」

厳しい場所に居る人ほど必要なものだろう。

面の皮は厚いものだけではない。ハリネズミのようなトゲもある。
トゲは防衛の一種で皮が厚くなるのと同じ効果狙い。

厚い皮は外からの刺激に鈍感。トゲは外からの刺激を拒否。
鈍感になれば、辛さを感じないでいられる。
心が痛くないように、自分の周りの皮を厚くして自らを鈍感にする。
敏感すぎると傷つきすぎて生きていけないから。
トゲを持っていれば外部のものが簡単には側に寄れなくなる。

おじさんおじさん、おじいさんおばあさん、の響きには余裕やゆとりと同時に
ある種の鈍さも含まれる。若さの生き生きとした張りや躍動感、透明感の逆。

日常に慣れての余裕は良いが、皮が厚くなって感性が鈍くなるのは嫌。
感性が鋭いままだと傷つきやすすぎて..かといって、トゲで攻撃するのも困りもの...

トゲや面の皮がいらなくなる時は、
ここに居れば安心だと心から思える時。
自分の何もかもを預けて、全部さらけ出して..
..そう、赤ん坊みたいに無邪気に笑える時。

赤ちゃんは、いつでも自分だけ見ててって泣く。
お腹が空いた、抱っこしてって泣く。自分で何とかしようなんて思わない。
この人は自分を愛してくれる。庇護してくれる。何があっても守ってくれる。
世界はそこしかない。でも..だから幸せなんだ。

そこでは自分を守る必要がない。
トゲを持つ必要も皮を厚くする必要もない。
ただただ要求し、答えてもらい、愛されている事を実感して満足する。
世界すべてを敏感に感じるようになる。

傷つく事を怖がって、自分の殻を厚くしてはいないか?
誰も攻撃してないのに自分からトゲを作って人を攻撃してはいないか?
自分の殻を薄くして、敏感な感性を取り戻して幸せになれますように。
1 「物言い」 

わたしの物の言い方はどうもきついらしい。あまり面識のない人には気をつけて話しているつもりなのだが、基本的に嘘はつけないたちだし、社交辞令にでも「本音で付き合いましょう。」などといわれると嬉しくて「はいそうですか、では早速...」と思ったことをそのまま表に出してしまう。あまりのストレートさにびっくりした人に「いくら本音を言えといわれたからといって普通は思ったことを全部はいわない」と教えてもらって「それじゃ、ちっとも本音じゃないじゃん。」私の方がビックリしたが。今では「普通」を教えてくれた人に感謝している。

何しろ私の育った浜根家の人間ときたら全員「歯に衣着せぬ」物言いが普通。無意識に人の痛いところをつく。この家庭、世間様とは「普通」の概念が違っていた。相手の悪いところを治すために言ってあげるのが人助けだと教わっていたから浜根家の普通の会話を聞いた人が、「何でずっと喧嘩してるんだ?」って思うそうだ。馬鹿正直もここまでくると大変だが、逆に良い点もある。言葉の裏を読む技を知らない分だけ疑いもないから、お互いに言うだけ言って、後にしこりは残さない。疑心暗鬼に縁がない。ただし、問題点を曖昧にしないので、闘いの平行線は解決するまでどこまでも続く。ふぅ、確かにこれを一般社会に持ち込んだら人間関係壊れるかも。

世の中、本当の事だから全て表に出すのがよいかというとそうでもないらしい。ゴーリキー「どん底」の台詞にも「真実を告げる事がいつも正しい事とは限らない」とあるし池波正太郎の小説を読んでも、表沙汰にしない事はたくさんある。適度な範囲を知るのが大人なんだなぁ。もっと大人になって、物事の本質を誤解のないように伝えられたら。別に嘘をつけるようにはなりたいわけではないけれど、柔らかな物言いができるようになりたいなぁ。。